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Open Dialogue from Diary & BBS

of minminpie

Special Thanks to JSF san

★一つの日記から始まったオープンな意見交換---そのためだけの特設コォ〜ナァ〜!★

このページはみんみんパイの日記「なぜ?と思わないなんて不思議」に感想とご意見をJSFさんから頂いたことにより始まった意見交換です。JSFさんにこまめに返答を頂き、そして私もまた答える努力をし、付け加えいろいろな方のご意見や読んでくださる方々のにお力によりBBSでのメッセージがなんと許容量を超えてしまいました。このまま意見交換をしていく為にはどうしてもメッセージの移動が必要となりましたので、特設ページを作った次第です。

人にはそれぞれの意見があって、それが普通でとても良いことです!そしてお互いが話すと全く違うポイントで同じことにアプローチしたりしますので、どういうトピックであれ、読む方には面白く感じていただけると思います。この意見交換を通して、少しでも皆さんも自分の意見を持っていただけたら幸いです・・・

○この意見交換に含まれる内容○

*「反戦平和」と「反戦平和運動」の意義
*第2次世界大戦が起こった直接の原因はなにか?
*ネオコンの定義
*フセイン暴走と湾岸戦争の原因は何が考えられるか?
*アジア諸国への今後のアプローチの仕方のそれぞれの意見
*靖国神社について考えてみる。
*湾岸戦争はわざと起こされた?!

まだこれからもいろいろ・・・意見交換する予定。
なおこのページはBBSの書き込みを(連続した書き込みをつなげるという編集以外は)そのまま転写していますので掲示板の文字数制限により文章が時々切れていますが、どうぞご了承ください。

○最後にJSFさんと参加したり読んで頂いた方皆さんに心から感謝をいたします。では!!!○


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なぜ?と思わないなんて不思議。 8月15日(金) テーマ「戦争反対(982)」
先日例の沢山の日本人が来たパーティーで、まゆみちゃんという女の子と知り合った。そろそろ2歳になる女の子がいるが、見た目はもちろん雰囲気もとても若く、話しているとまるで5歳から10歳年下のように感じたが実は私よりひとつ年上だった。

彼女はとても活発でパワーのある人で、話を聞いていた私は彼女の何も恐れないでやろうという勇気と行動力に感心していた。岡山出身の彼女は、日本ではこれまで「難民支援コンサート」などを数回開き国連の難民支援プロジェクトに集めたお金を寄付していたそうだ。他にもファッションショーや展示会などいろいろなイベントの手伝いをしたり、バンドを組んで歌ったり、バーテンをしたり、ダンスをしたりと芸術的なことを思いっきりやってきたそうだ。私も歌を長い間歌っているし、芸術的な活動は大好きなので彼女の話を興味深く聞いていた。

旦那の連れで渡米してまだ5ヶ月の彼女だが、アースチャーターという国連が出した環境保護条約の様なものを人々に知らせると言う活動を既にこちらに来て始めており、英語が理解できないのに会合に行っているというからすごい。まぁ、子育て以外の仕事はしていないそうなのでたっぷり時間はあるわけだからある意味うらやましいが。

そのまゆみちゃんの話の中でとても興味深く、またとてもすっきりしない現象を私は聞いていた。

彼女が難民支援のコンサートを始めるとき、協力してくれる人々を探すのに一苦労だったそうだ。まず彼女はXXXのメンバーなのでそのXXXの活動の一環で人を集めようとしたら宗教色が少々強いので敬遠されたと言う。次にXXXメンバーとは離れてきちんと宗教と切り離し、アーティスト個人として「戦争反対」とかそれ以上の理由や理屈を並べてコンサートをしようと思っても人が集まらなかったと言う。そして最後に一般的に「平和」だけを掲げて、それだけに賛同する人を集めたら人が集まったそうだ。「平和」ならどんな思想であれその言葉には人々は賛成するらしい。

彼女の結論は、「そういうわけだから<平和>と言う言葉であればみんな賛成できるのでイベントが開ける」とそのような感じであった。だからアメリカでも同じことができると思うし、やってみたいと。

私はウン、ウンと話を聞いていたがその時なぜ自分はそうだね!!!と心の底から言えないのかちょっと分からなかった。でも何かが違うんだよな〜〜〜〜というのは知っていた。

次の日も職場でそのことを考えていた。そしてやっと結論にたどり着いた。

彼女の言っていることはすこぶる日本人的だ。何がどうだという事実でなく、共感を呼ぶひとつの言葉に賛同すれば何を求めているわけでなくとも人が集まるということだ。「平和」と言うタイトルで人々を集めてもそれ以上の目的がない。難民支援の募金は集まるがそれと「平和」とは直接的に関係があるわけでない。そうならなぜ「難民支援したいから」と言う目的で人を集めなかったのだろうか?それでは人が集まらないのだろうか。

アメリカでは誰も「平和」とそれだけの理由で人は集まらない。「平和」を本当に求めているならもっと具体的にあれをしよう、これをすべきだと意見のアピールがいつでも大切だ。例えば、過去半年に数多く行なわれたラリーでも「平和」でなくて「無駄に人を殺すな」「国連と協力しろ」「企業の利益の石油のために戦争をするなら、そんなお金は教育費に使え」とか「爆弾では平和は来ない」などそれなりの主義主張をするために人々はパレードした。

そして私自身も、戦争賛成の人になぜ戦争反対かを説明するのにただ「平和が良いから」なんて甘っちょろい理由では絶対立ち向かわない。本当に「平和」を訴えたい時に、人々になぜこれが良くないのかをしっかり説明することで相手の考えが変わる。そうでなくては誰も納得しないし、「なにが平和だ?」と言われてもしょうがない。戦争賛成の人々はこちらが指摘できるだけの矛盾や事実を抱えているから、それを指摘してあげなければ彼らはなぜ「平和」が必要かなにが「平和」であるのか理解はできない。

「平和だけ訴えても何も変わらない」という批判の書き込みが反戦と唱える人々の掲示板に書き込まれるのも非常に日本人的である。では、あなたは何をするのか。なぜ世界中に「反戦」を唱える人がいるのか。「なぜ?」の言葉の基にそれ以上の事実や理由を知ろうと言う気持ちがあるだけで考え方がいろいろ変わってくるし、自分の考えに自信が持てる。

こんな感じの「とある事実」でなくて「とある言葉」に絶対的・漠然的に人に賛同したり賛同させたりする現象は、別にこの「平和」のケースだけでなくとも日本には沢山ある。

私の家庭でもあった。私はまじめな小学生だったが「なんで?」がそれなりに多い子だった。それゆえ、母親から「親」の言うことは絶対だから、反抗しちゃ駄目、という納得いかない圧力に耐えられず中学生の時にはひどく反抗した。

教育実習で母校に戻り、ひとつクラスを担当したがそこでも面白いことがあった。 生徒達に一日の出来事を聞くと、「今日は英語の山本先生に怒られたんだ」という。

私が「どうして怒られたの?」と聞くと、生徒達は「それがわからないんです」という。

そのクラスの生徒達は比較的おとなしい生徒達だったので多分発言が少なくて山本先生は怒ったのだろうと推測したが、生徒達に「じゃー、何で怒られたか分からないんだったら、どうして怒ってるんですか?ってきかなきゃ駄目ね。聞いてみたほうがいいわ。」とアドバイスした。

山本先生と私は実は仲が良かったので、後に会った時に「生徒に何で怒ってるんですか?って聞かれちゃったわ。」と言っていて私は心の中でよかった,よかったと思った。

山本先生はなぜ怒っているのか生徒に言わなかったし、生徒達はなぜ怒っているのか聞かなかった。生徒は先生が言うことだから、と理由が分からなくても受け止めているし、先生は、発言しないのはよくないと生徒は知っているはず、と勝手に推測していたに違いない。でもこの事件で、生徒は発言しなくてはいけないらしい、と思っただろうし先生も理由は言った方がいいと思ったに違いない。

教育システムもそうだ。なぜ一流高校・大学に入るために勉強するのか。どうして入学試験をパスする為の勉強を強いるのか。どうして高校・大学に入るのか。勉強とは一体何なのか。学校は生徒に疑問を持たせない。ただ「勉強しなくてはいけないから」「勉強しなくては就職できないから」「勉強しなくては大学に入れないから」ととても短絡的な方向に持っていかれているし、その時点で「なぜ?」と聞く思想を摘まれてしまっている。だから、「XXXしなくてはいけない」と義務的な漠然とした指標がなくなった時に人は生きる気力をなくしたり、新興宗教にはまったりだのしやすくなる。そのような人々には宗教のように人生の「XXXしなくてはならない」という思想が結局必要にはなるのだから。だから宗教に入っている人々を否定はできない。

沢山の日本の人々の政治や社会問題に対する姿勢もそうだ。「政治家はしょうがない」「よくない」「どうせ変わらない」と既にあきらめて選挙にも行かない人々がいる。では、なぜしょうがないのか?なぜよくないのか?なぜ変わらないのか?そしてあなたは変えたいのか?

「電気使っているから原発があるのはしょうがない」「景気がわるいからリストラだってしょうがない」いろいろあるけれどもではなぜ社会問題になるのだろうか?

本当の教育や勉強は大学に入るためでも就職する為でもなんでもなく、「なぜ」を追求する為にあると私は思う。しょうがないの一言で何事も納得してしまっては人生は誰かの操り人形だ。

話は戻るがそういうわけでまゆみちゃんとは、楽しく話をしたにもかかわらず私は不思議な気持ちで彼女の夢を聞いていた。私がこれからできることは、彼女のやる気を摘まないように彼女の方向性をもっと明確に導いていくことだ。多少時間はかかるが、じっくり説明すれば文化の違いをきっと理解してくれるだろう。そして彼女のやる気にあやかってその夢がきちんと実現すれば、私にとっても大きなステップに違いない。もう少し沢山の人々に「なぜ?」について考えてもらえるかもしれない。

+++JSFさんからの書き込み
はじめまして。
>「平和」を本当に求めているならもっと具体的にあれをしよう、
>これをすべきだと意見のアピールがいつでも大切だ。

全く、その通りですね。ただ平和、平和と念仏を唱えるだけの平和運動にはなんら魅力を感じません。

>「平和だけ訴えても何も変わらない」という批判の書き込みが
>反戦と唱える人々の掲示板に書き込まれるのも非常に日本人的である。

私はそういう書きこみを控えてます。
相手にするのも時間の無駄ですから。

しかし具体的な理由を述べて反戦平和を唱えている人々でも、こちらが指摘できるだけの矛盾や事実を抱えているから、それを指摘します。

何故そんなことをするのか?

私自身が彼らの主張に対し何故?と思う部分があるからです。
そうすれば彼ら自身もより“何故?”と思ってくれるでしょう。

・・・チャーチルは第2次大戦後、「この大戦はする必要が無かった」と言いました。
その真意は、ドイツがラインラント進駐した際に軍事制裁をかけていれば大戦は起こらなかった、と当時英国首相だったチェンバレンへの批判です。
当時、欧州は第1次大戦後の厭戦ムードで凝り固まっていました。反戦平和が、後の世界大戦を生み出したのです。

・・・こういう事例もあるので、私は彼ら(反戦運動家)に“何故”と思わせ続ける意味があると考えています。

(8月20日7時2分)

+++Minminpieからの書き込み
JSFさん またまた失礼します!!!私の書いていることに感想を書いて頂いて本当にうれしいです!私はJSFさんのような意見を持っている人は本当に貴重だと思いますし、これからもいろいろな観点で物事を指摘していただけたらと思います。お互いの「なぜ?」という疑問をぶつけていけば、知識や考え方も深まるし双方の意見の解決策も見えてくることがあると思います。

>チャーチルは第2次大戦後、「この大戦はする必要が無かった」と言いました。 その真意は、ドイツがラインラント進駐した際に軍事制裁をかけていれば大戦は起こらなかった、と当時英国首相だったチェンバレンへの批判です。当時、欧州は第1次大戦後の厭戦ムードで凝り固まっていました。反戦平和が、後の世界大戦を生み出したのです。

先に謝りますが、もし、私の知識不足があれば指摘してください!まだいろいろ勉強中ですから!

この件に関してですが、まずチェンバレン元イギリス首相は反戦活動家ではないですね。宥和政策をしたと言いますが、それは当時の反戦運動の影響ではないと思います。その時代に反戦運動をする人々はそれだけの権力があったのでしょうか? 1938年9月に行なわれたミュンヘン会議で、ヒトラーと「平和的」解決で戦争を回避しようとしたイギリスとフランスは、同じく当時影響力のあったソ連を会議にははずし、チェコスロバキアを当事国の許可も無しに勝手にヒトラーに渡しました。それはチェコスロバキアを勝手にヒトラーに渡してしまうことで、イギリスもフランスも一時的攻撃をされずに済んだということになります。チェコスロバキアはおかげで大変な目にあうわけですから、決して「平和的」に解決されてはいません。 そして、そのミュンヘン会議の辺りはイギリスは第一次世界大戦、世界恐慌などに続く影響でお…

またやりました。続きです。 その上、ナチスはソ連の「共産主義」には大反対でした。ですからそれを利用すれば、ナチスの攻撃の矛先はソ連に向くとイギリスやフランスは読んで、そのミュンヘン会議にソ連をはずしたとも言われています。

でもそれでソ連を仲間はずれにしたおかげで後にナチスとソ連は手を組み、諸国の戦争は泥沼化しましたね。

と言うことは、それはチェンバレン元首相が反戦主義の風をあおって「平和」思想で沢山の人々と国と共にナチスに呼びかけ戦争事態を回避しようとしたのではなく、自国の利益のみを追求し、「ヒトラーがソ連を攻撃するだろう」、と読みを間違えた「ただの失策」とも取れますね。

それだけではありません。戦争には資金が必要です。ナチスがあれだけ拡大した背景に必ず資金源がありますね。ナチスの反ユダヤ政策はナチスだけで行なったものではないようです。アメリカの自動車産業のフォード社の社長、ヘンリーフォードも反ユダヤ政策を支持し、資金を沢山送ったともいわれています。(その他米国企業多数)ナチスはその資金を使い、ユダヤ人をホロコーストにかけ、金品を奪います。
そこでスイスの銀行が登場します。スイスはナチスが奪ったそのユダヤ人からの金品を換金してあげ、ナチスはそれを資金にしていたと言う事実を、ここ数年前に世界ユダヤ人会議から事実が明るみに出ました。スイスの銀行はナチスだけにそれを行なっていたのではなく周辺国一体に軍資金を廻してあげていたようですから、まさにきりがない資金繰りだったわけですね。

ですから、戦争をあおっている人がいたわけで、それは決して反戦運動のせいで戦争が起こったとは決めがたいと思います。

そして、今年のイラク攻撃は、この第2次世界大戦のケースとは随分違うと思いますから、反戦運動が出ても当然だと思います。そのことに関してはいろいろありますが、長くなるので取り合えずこの辺で!!!

では、また〜〜〜〜〜〜っ!本当に書き込みありがとう!

(8月21日2時27分)

+++JSFさんからの書き込み
みんみんパイさん

>「ヒトラーがソ連を攻撃するだろう」、と読みを間
>違えた「ただの失策」とも取れますね。

初耳ですね。共産主義に対して大反対だったのは英仏も同じですし。反共を利用すればドイツはソ連に侵攻するですって? 当時の英仏が其処まで馬鹿とはとても思えません。

1922年、ドイツとソ連はラッパロ協定を結びます。
ベルサイユ条約に違反する秘密軍事協定をも含んでいましたが、公開された条文だけでも英仏を激怒させるには十分な内容でした。

「こんな事なら始めからパリ講和会議の時に、ソ連とドイツを呼べばよかったのだ!」

英仏は地団太を踏んで悔しがっています。
私はチェンバレンが「ドイツはソ連攻撃に向かうだろう」などと思うような愚物とは思いません。

>それは決して反戦運動のせいで戦争が起こったと
>は決めがたいと思います。

やるべき時に決断しなかったせいで大事になってしまった、というのがチャーチルの言葉の意味でしょう。
それに私は反戦運動のせい、とは言っていません。
反戦平和が、と書いています。
厭戦ムードに押され、戦争を回避し続けた結果が世界大戦だと。大戦になることを防ぐ唯一のチャンスはラインラント進駐事件でした。ズデーデン割譲時では駄目です。

>まずチェンバレン元イギリス首相は反戦活動家ではないですね

当然です。反戦平和活動家が国家主席には成り得ません。チェンバレンは最後まで…

(8月21日3時55分)

+++Minminpieからの書き込み
いつも鋭い返事を本当にありがとうございます!意見を言い合えるってすごくいい刺激になるので、とても感謝しています。それでは思うことを書きたいと思います。

>>初耳ですね。共産主義に対して大反対だったのは英仏も同じですし。反共を利用すればドイツはソ連に侵攻するですって? 当時の英仏が其処まで馬鹿とはとても思えません

初耳でいいんです! 文学も人の言動もそうですが、歴史もいろいろな側面から見方があると思います。答えは決して一つじゃないですよね。日本では「試験」が多いので答えを一つに決めがちですが、そうしてしまうといろいろな想像力・分析力を欠いてしまいますね。JSFさんの解釈ももちろん一つですし、私の解釈もその一つです。ある一定の方向からだけの事実を受け売りするわけにはいけません。でも、説明が足りなかったかもしれませんので、もう少し説明します。

この「ミュンヘン会議」を調べた時に10個以上の資料を見て周ったのですが、9割の資料にミュンヘン会議とは「ソ連とチェコスロバキアを参加させないで、イギリス・フランス・ドイツ(ヒトラー)・イタリアでズデーデン(チェコスロバキア)をドイツに渡すことに決めた会議」という内容が書いてあります。

もしこれがただドイツにチェコをあげると決めただけの話なら、なぜ必ず「ソ連とチェコスロバキアを参加させないで」という部分がつくのでしょうね?と、いうことはですよ、「(本当は参加させるべき)ソ連とチェコスロバキアを参加させないで」という意味合いになりませんか? もしそうでなければ、「イギリス・フランス・ドイツ(ヒトラー)・イタリアでズデーデン(チェコスロバキア)をドイツに渡すことに決めた会議」だけでいいと思いません?!

チェコスロバキアは勝手にヒトラーに渡されてしまった当事国でしたので、当事国がその場にいたら同意抜きで勝手に渡すことができなかったかもしれないですよね。フランスとソ連は共にチェコスロバキアと同盟を組んでいました。フランスと一緒に管轄してたチェコスロバキアを勝手に渡されソ連のスターリンは激怒し、1939年のナチスとソ連の同盟にいたりました。そして約一週間後に第2次世界大戦です。
なんでその時、ソ連は参加させてもらえなかったんでしょう? 何か意図(政策)があるわけですよね。まさか英仏はソ連が怒るなんて思ってなかった、なんてことはあるのでしょうか?

もしJSFさんがこれを「馬鹿」とお呼びになるのなら、本当に英仏は「馬鹿」だったのかもしれませんね。英仏が反共産主義であったのならなおさら、自分達(英仏の軍隊)より力を持ったナチスに、嫌いな反共主義のソ連を攻撃させて相打ちさせてしまおう、という解釈もできると思いませんか?

別に同意されなくていいです。こういう解釈もあるという可能性を理解していただければいいなー、と思います。
しかし、この「ミュンヘン会議」の時点ではナチスへの制裁は遅すぎるとのJSFさんのご指摘でしたので、この議論はもう既にポイントはずれですが、このミュンヘン条約の事件が世間的に批判される「宥和政策」であり、JSFさんの一番最初の書き込みに指摘があった、チャーチルが批判している事です。もう一度JSFさんのご指摘を掲載しますが、

>>チャーチルは第2次大戦後、「この大戦はする必要が無かった」と言いました。
その真意は、ドイツがラインラント進駐した際に軍事制裁をかけていれば大戦は起こらなかった、と当時英国首相だったチェンバレンへの批判です。>>

ここで、そのチェンバレン元首相が「ドイツがラインラント進駐した際に軍事制裁をかけていれば大戦は起こらなかった」と書いてありますが、それはチェンバレン批判に含まれていません。なぜなら、ドイツのラインラント進駐は1936年3月7日に起こり、チェンバレンが首相になったのは1937年5月28日、既に一年以上過ぎているからです。その時の首相はスタンレー・ボールドウィンですね。そして、彼自身が彼の政策の中に、「自国の軍事力はナチスとムッソリーニを倒すほどの戦力がない」と「むしろソ連をナチスが攻撃してくれれば共産主義が発展しないだろう」というアイデアを取り入れていました。(英語の文献から抜粋しているので日本語のネットでは見つからない資料かもしれません)しかもドイツのラインラント駐在に関して、大抵の資料では「もしフランスが攻めてきたら撤退するつもりでナチスは侵入した」と書いてあり、実際何もしなかったのはフランスとも言えます。

アメリカの自動車会社のフォードヘンリーは1928年にはナチスの財政をバックアップし始めています。その後ろ盾も押してナチスは1933年に政権を握り、1936年にはオリンピックを機会に政党を上手に各国にアピールしましたね。もし、ラインラント進駐のときにフランスが何か対策を打ってナチスをその時撤退させたとしても、平和解決のための根源(財政的なもの等)を断とうとしなかった限り、第2次世界大戦は起こっていたかもしれませんよ?

>>それに私は反戦運動のせい、とは言っていません。反戦平和が、と書いています。厭戦ムードに押され、戦争を回避し続けた結果が世界大戦だと。

この意味から解釈しますと、「反戦平和」=「厭戦ムードに押され戦争回避し続けた状態」ですね。上にも書きましたが、まさに英仏や諸外国は、平和解決に向かう為の予防策も練らず、他の国の衝突を見守るだけで一時的な停戦状態を保ち続けたと思います。「戦争回避しづつける」というのは「平和解決をさぐる政策」を確立していくのとは違い、解決策を見出していないですね。

現在世界的に「反戦平和」というのは「非暴力不服従」という意味で使われていると思います。「非暴力」は「不服従」とくっついています。「非暴力」だけじゃ足りないんです。「不服従」をすることによって他人が起こそうとする(あるいは既に行なわれている)暴力を無意味にさせようというアイデアですね。

そして「平和学」や「平和政策」というのはまず「平和」という非暴力の状態でいることを前提に、いかに問題を解決していくか、というとっても挑戦的な解決法です。自分自身を第3者の立場において、「軍」をだしたり「爆弾を落としたり」して相手を暴力で服従させるというアイデアは、非暴力よりもすばやく処理ができ簡単ですが、では自分自身が軍に入って人を殺したり、また逆に相手に殺されたりすることにはならないでしょうか?

人にはそれぞれ考え方があって当然ですが、たとえ自分自身の中でも、人間関係でも暴力以外の解決策はありますよね。日本の「反戦」を言う人々の中で足りないのは「反戦」「平和」からそれ以上の解決策を考えようとしないことかもしれませんよね。(私ももちろんまだまだ発展途上ですが)JSFさんのように、自分の中で解決法やアイデアを固めて発表できる方のほうが、平和、平和と叫んでいる方よりも断然話していて楽しいし、立派だと思います!

まだまだご意見をお伺いしたいことはありますが、長くなりますので今日はこの辺で。これを読まれる時はそちらでは金曜日の朝ですね。8月も終わりに近いのでどうぞ、JSFさんもこれを読んで問題意識をもたれた皆さんも、楽しい週末を過ごしてくださいね。私は半日遅れですので、もう一日頑張ります! では〜〜〜〜〜★

ps ラッパロ条約に関して何か書きたかったのですが、他のことが長すぎて書き込みに至れませんでした。すみません。

(8月22日5時2分)

+++JSFさんからの書き込み
チェコ併合時には既にドイツ軍は十分に編成し終えていました。ラインラント進駐時にはまだ不充分であり、チャンスはこの時が最後のものでしょう。

>チェンバレンが首相になったのは1937年5月28日

ヤー、すいません。記憶違いしていました。

>「自国の軍事力はナチスとムッソリーニを倒すほどの戦力がない」

1935〜36年時点での戦力比を見ればわかりますが、ドイツ軍はまだ十分に編成し終えていません。フランスと合わせれば圧倒できる筈です。弱兵のイタリア軍に至っては、数の内に入りません。

>実際何もしなかったのはフランスとも言えます。

フランスはドイツのラインラント進駐時に何も出来なかったのはイギリスの援助が無いと判断された為です。

イギリスは1935年にドイツと海軍協定を結び、ドイツにベルサイユ条約で定められた数の4倍の艦艇保有を認めています。
これはイギリス自らがベルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備を認めるものです。フランスはこの時点で、イギリスに裏切られていました。

  ラインラント進駐時、フランスのサラウ首相は強硬策を主張しましたが、諸外国で即座にフランス軍と呼応してくれると約束できたのはポーランドのみ。

-----------------------------------
ラインラント進駐のときにフランスが何か対策を打ってナチスをその時撤退させたとしても、平和解決のための根源(財政的なもの等)を断とうとしなかった限り、第2次世界大戦は起こっていたかもしれませんよ?
___________________________________

ではラインラント進駐時に英仏が軍事制裁をかけ、ドイツが素直に撤退した場合を考えます。

当然、国際社会はドイツにペナルティを与えようとする筈です。それは形骸化しつつあったベルサイユ条約を再び厳格にドイツに付き付け、ドイツの経済力と軍事力を両方とも締め上げる事になっていたのは間違いないでしょう。

そうすればヒトラーの野望は断たれます。
ヒトラーがこれを拒否し、1936年の段階でフランスを攻撃しようとしたら? 戦力整備が不充分だったドイツは早期に敗れ去っている筈です。そしてそれは世界大戦と呼べる規模の戦争にはならなかったと思います。

(8月22日14時56分)

+++Minminpieからの書き込み
JSFさん

またお返事本当にありがとうございます。書き方が詳しくなりましたね! すごく分かりやすいです。私もきちんと伝わるように頑張りたいと思います。

>フランスはドイツのラインラント進駐時に何も出来なかったのはイギリスの援助が無いと判断された為です。イギリスは1935年にドイツと海軍協定を結び、ドイツにベルサイユ条約で定められた数の4倍の艦艇保有を認めています。これはイギリス自らがベルサイユ条約を無視し、ドイツの再軍備を認めるものです。フランスはこの時点で、イギリスに裏切られていました。 ラインラント進駐時、フランスのサラウ首相は強硬策を主張しましたが、諸外国で即座にフランス軍と呼応してくれると約束できたのはポーランドのみ。

これすごくおもしろいですね!それってまさにイギリスが自国の事だけを考えて、ナチスの拡大を認めフランスを放ったってことじゃないですか!(まず最初にナチスに攻撃されるのはイギリスでなく側のフランスでもあったわけですよね?)JFSさんの意味する「反戦平和」というよりは、「協力放棄」ということですね。 

私もいろいろ見たんですけど、1935年3月、ドイツがラインラント進駐をする前の1年前にドイツは再軍備宣言をしました。フランスはドイツにそれまでに2回も攻め入られたことがあったのでドイツに不信感(危機感)をもともともっていたから、ドイツが再軍備宣言をしてあわてて「ストレーザ戦線」というイギリス・フランス・イタリアの協力関係を結びましたね。イタリアのムッソリーニは危なかったけど、イタリアを仲間に入れなかったらドイツと手を組んでしまうので(もっと危険な状態になりますよね)イタリアをそこで仲間に入れておいたわけです。これは次の月の4月です。

そしてその翌月5月に、フランスはさらに不安を無くす為に「仏ソ相互援助条約」を結んでいます。同じく5月、ソ連はその緊張感を受けて「ソ連=チェコ相互援助条約」を結んでいます。(これがその「ミュンヘン会議」にソ連が招待されなかったしこりの原因ですね。)そして、その翌月の6月、JSFのご指摘の通り、イギリスは英独海軍協定を結び「ドイツにベルサイユ条約で定められた数の4倍の艦艇保有を認め」るんですね。野放図にしてるんですよ!

ドイツのラインラント進駐の五ヶ月前、1935年10月に、イタリアはエチオピアに侵攻しました。JSFさんのご指摘したとおり、多くの兵ではないでしょう。しかし、諸外国を含め「国際社会」は何もしませんでしたね。なぜならフランスとイタリアはこのとき協力関係にあったし、イギリスも植民地政策には反対ではなかったからです。その態度をみてヒトラーは翌年3月ラインラント進駐をしました。

そのラインラントにドイツ軍が進駐したときにイギリスがフランスを援助しなかったのはそのようないろいろな状況下に対するイギリスの無対策・無政策態度の延長という言い方が妥当になるかもしれません。

なぜなら、その3ヵ月後にスペイン内戦が起こり、ドイツとイタリアはフランコ将軍を協力にサポートし、ソ連は人民戦線(共和党=共産主義)サポートしました。フランスは人民戦線政府だったので、ソ連側をサポートしたかったのに関わらず、イギリスはイタリアと敵対したくなかったので1936年12月「紳士協定」を結びフランスに圧力をかけて人民戦線をサポートさせませんでした。(またフランスを軽重に扱ったわけね)それでナチス・ファシズム側が1939年第2次世界大戦の始まる年に勝利をおさめるわけです。

→続く→

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